町田総合高校の暴力問題について感じたことを書こうと思う。
本件は、校則違反(ピアス)をした男子生徒を教師が咎めたところ、生徒が逆上。
教師を繰り返し罵倒、それに激昂した教師は生徒の顔面グーパンチ。
…という一連のやりとりが、スマホ動画でアップされ始まる。
この動画を見て、
・教師は悪くない
・この生徒にも非がある
・親の顔が見てみたい
など多くの意見が出て、世間も教師に同情的だ。
それに対し「暴力は絶対にダメ」という意見もある。
暴力が肯定されるべきか、法律的にどうなのか、という話は僕はしない。
動画を見て
この生徒は安全地帯から石を投げている
と僕は感じた。
決して反撃されない、
完全セーフティーだと思っている。
だからあんなに事を言えたのだ。
それが人として間違っていたというのが、今回の真相だと僕は思う。
この生徒は、全く同じことをイカツい風体の人に言えるのか?
ナメられる教師が悪い、という意見もある。
しかし反撃の手段を制限されている教師の現状を鑑みるに、ナメられても致し方ない。
教師は絶対に反撃してこない…これが生徒の思い違いだ。
似たことは社会でも起こっている。
歩行者信号が赤なのに、のんびり歩く人と出会う時だ。
こういう歩行者は「車は絶対に止まる。歩行者優先だから」と思っている。僕の親がそういう思想だったし、友達も何人かこういう思想を持っていたので、まぁまぁ一般的な思想なのではないかと思う。
歩行者と自動車の交通事故では自動車側が不利で、歩行者側は守られる。
これは歩行者優先と教習所で教わる、その通りである。
そのための保険もあるし、保険金もちゃんと支払われる。事故を起こした運転手には免停や取り消しなど然るべき法的対応が取られる。
だが、もし事故になった時に痛い思いをするのは歩行者なのだ。
保険金も支払われるし、運転手は裁かれる。
だが、痛い思いをするのは歩行者だ。
入院して、何ヶ月もベッドの上の生活になったり、障害を負ってしまうかもしれない。
その保険金はやっぱり適正に支払われるけれども、
痛い思いをするのは自分なのだ。
それをわかっていないので、のんびり赤信号横断をする。
この生徒にはこれと同じような精神性を感じる。
話を戻すと、この教師は人としての意地を見せたのだと僕は思う。
教師は、教師である前にひとりのヒトなのだ。
誇りを傷つけられ、教師ではなく一人のヒトとして反撃した。
「先に暴力をした方が悪い」法律的には正しいし、裁かれる。
だが今回、痛い思いをしたのは生徒だ。これからも社会的な痛い思いをするだろう。大きい代償だ。
一方、世間は教師に対して同情的だ。まさに情状酌量の余地ありと言える。
人としての意地、その言葉を語るのに『花の慶次』のクライマックスを忘れることはできない。
時の権力者である豊臣秀吉は、傾奇者(かぶきもの)と呼ばれる、主人公の前田慶次を呼びつけ、笑い者にしようとする。それに対し慶次は、秀吉を殺そうと計画する。
直前で秀吉は見抜き、慶次に問いかける。
秀吉「(ワシを殺そうとしたのは)なぜだ!?」
慶次「しいて言えば…意地とでも申しましょうか」
秀吉「傾奇者の意地と申すか!?」
慶次「人としての意地でござる!」
いかに天下人であっても、人を笑い者にして良い道理はない。
慶次は、秀吉の思い上がりに鉄槌を下そうとしたのだ。
今回の一件も、まさしくこれだろう。
優位な立場にいる生徒が、教師に罵倒という攻撃を仕掛けた。
その思いあがりに、教師は鉄拳で答えた。
このことを無意識に感じているから、世間の人は教師に対して同情的なのだ。
人としておかしい。
人として、正しい。
これは実は法律では裁けないことなのだ。
人としての意地。これは決して忘れてはならない。
よく部下や後輩に強く当たる上司や先輩がいる。
だが、その役割を外したら、結局は人と人なのだ。
そこに無礼があったら、殺されてもおかしくはない。
キレちゃった人に、社会的な立場は関係ない。
社会的な制裁はあるが、痛い思いをするのは仕掛けちゃった自分なのだ。
その考え方がないと思い上がって、痛い目を見ることになる。
人としての意地…忘れずに生きていこう。
終
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