イノセント勤め人

日記

日記。

無垢な、純潔な、無邪気な

先日、支那そば軍曹殿が「イノセント老人」という単語を生み出した。

 

この「イノセント」という単語、素晴らしいなと思った。

イノセントとは、無垢、純潔、無邪気、けがれのない、といった意味を持つ。

僕が周りの同僚や、学生時代の友人たち、生活の中で出会う人々、親族などに対して抱いていたモヤモヤした感想が、この「イノセント」という単語でうまく言語化できた。

僕は日々、周りの同僚(オッチャン達)を見て、接している中で、

「なぜこの人達は骨の髄まで社畜精神なのか?

むしろあえての演技なのか?

だとしたらアカデミー賞ものではないか?」

とずっと思っていた。

しかし違った。これは演技ではなかった。

演技ではなく真に「イノセント」な勤め人だったのだ。

シンプルに、ただそれだけだったのだ。

「雇われ人」という蔑称

僕はサラリーマンである自分の身分を「雇われ人」と呼ぶことにこだわっている。

蔑称のニュアンスを大切にしている。

「勤め人」という呼称には、マイルドなニュアンスを感じる。

「勤め人」と聞くとーー

なんだか真面目で良い人、というニュアンスを感じさせる。

そういう響きを僕は危ないと思っている。

「勤」という文字からも、そのような感覚を受ける。

しかしその実情は美しいものではない。

その本質は、都合よく雇われ、適度に使われながらも、他に商品がないから、労働力を日売りする小作人である。

自分を誤魔化してはいけない。

雇われの身である限り、どこまでもくだらない身分なのだ。

そういうニュアンスを込めて「雇われ人」という単語にこだわってきた。

「イノセント勤め人」たる理由

さて僕の周りにいる人々はイノセント「勤め人」と呼ぶのが適切だ。

彼らは勤め人でいることに正当性を感じている。

勤め人でいることは普通のことだと、永きにわたる洗脳で、既に諦観しているのかもしれない。

「自分は労働力を日売りしているだけの雇われ人である」

このことをしっかりと自覚し、その身分に侮蔑の感情を抱く者にこそ「雇われ人」の単語はふさわしい。

「社畜」「勤め人」には、自虐風自慢のニュアンスがわずかながら漂う。

しかし「雇われ人」にはこのようなニュアンスは全くなく、

ただただ蔑称なのである。

この侮蔑感が大切だと思う。

このフィーリングを忘れたとき、さまざまな言い訳が浮かんでくる。

サラリーマンである自分の現状の正当化が始まる。

そしてその正当化は、実現可能だ。

勤め人の身上を良しとするのは、自分さえ納得させられたら完了するのだから。

誘惑に抗い続ける

自分はあくまでも小作人。

雇われ人であると。

この身分はくだらないんだと。

そう思い続けなくては、雇われ人卒業の長い道のりを歩き続けることはできない。

僕は「イノセント勤め人」ルートに落ちる誘惑と常に戦い続けている。

オモチャの勲章(昇進)と、

くだらない飴玉(わずかな年収アップ)や、

仕事上達・成功させて褒められた等という精神的報酬に、常にあらがい続けている。

それらはイノセント勤め人ルートへ転がる罠だからだ。

「勤め人でも、いっか」

という誘惑。

これに抗う方法はただひとつ。

「結局は“雇われ人”でしょ?」

と自分に問い続けることだ。

名刺に役職がついた、

部下ができた、

年収が50万増えた、

大きな顧客・仕事を任されるようになった…

それでも結局は、“雇われ人”なんだ。

たとえ役員になっても。

長い長い、マラソン

雇われ人脱却・卒業の道は長い。

マラソンのようなもので、一足跳びにはゴールできない。

そして走るのを諦めたとき、道の脇には「イノセント勤め人ルート」がいつでも来いと待っている。

そして事実、多くの人が諦めて、イノセント勤め人ルートを選んでいく。

だから一層、不安になる。

「俺、ひとりで粘ってるけど…おかしいんじゃないのか?」と。

しかし、もう戻れない。

資本主義ゲームの原理原則を知ってしまったからには、イノセント勤め人には戻れない。

イノセント勤め人でいられる人は、ある意味で、しあわせだ。

でももう僕はイノセントには戻れない。

戻れない、帰れない。

竈門炭治郎のうた

ここで「竈門炭治郎のうた」を思い出した。

その歌詞を紹介しよう。

竈門炭治郎のうた(作詞 椎名 豪)

目を閉じて 思い出す

過ぎ去りし あの頃の

戻れない 帰れない

広がった 深い闇

 

戻れない 帰れない

広がった 深い闇

泣きたくなるような 優しい音

どんなに苦しくても

前へ 前へ 進め 絶望断ち

 

失っても 失っても 生きていくしかない

どんなにうちのめされても 守るものがある

 

我に課す 一択の

運命と 覚悟する

 

泥を舐め 足掻いても

目に見えぬ 細い糸

 

泣きたくなるような 優しい音

どんなに悔しくても

前へ 前へ 向かえ 絶望断ち

 

傷ついても 傷ついても 立ち上がるしかない

どんなにうちのめされても 守るものがある

もちろんこの曲は、鬼と戦う運命を懸命に生きる竈門炭治郎のうたである。

鬼との戦いは、まさに命がけだから、やや苛烈な歌詞になっている。

しかし程度の差はあるが、雇われ人卒業も似たような性質を持っていると思う。

雇われ人卒業を鬼舞辻無惨を倒すことだとすれば、そのためには全集中の呼吸を会得し、剣術を磨いて、実戦を通じて経験を積んで、下弦・上弦の鬼と戦って破り、無惨に迫っていく必要がある。

これを雇われ人卒業に当てはめるならば、マネーリテラシーを高めるため情報収集し、法人を作り、不動産を購入して、メンテナンスして客付けして、キャッシュフローを積み重ねて、ようやく鬼舞辻無惨と戦えるようになるのだ。

そういう意味では、鬼舞辻無惨とは、生活費分のキャッシュフローの確保なのかもしれない。

キャッシュフローの確保

チャレンジしている人にはわかると思うが、このキャッシュフローの確保は簡単ではない。

種銭をまとまった額(数百万円)貯めて、

そこから優良な物件を見つけ出す。

テキトーな物件は徒らに種銭を溶かしてしまう。

この優良な物件とは千三つ(1000分の3)と言われるほど、少ない。

しかもそれをライバル達と奪い合う。

現金買いできる規模でない場合、融資を受ける工程もある。

そしてようやく確保した物件も、入居者が付かなければキャッシュフローとして稼働しない。

そのために修繕や交換、整備が必要でこれにも費用がかかる。

そして野ざらしで入居者が寄ってくるわけでもなく、賃貸の仲介業者へ営業へ行く…

このような工程を経て、ようやくキャッシュフローが発生する。

これがとても大変だから、多くの人はイノセント勤め人に戻っていく。

イノセント勤め人をすることは、ある意味でラクなことだから。

毎日真面目に出勤して、与えられた課題をクリアする。

その繰り返しだけで、とりあえず死なない。

これも確かにキツいといえばキツい。

しかし、あまり能動的な要素がないし、成果に対する責任も負わない分、実はラクな生き方と言える。

自分でキャッシュフローを作っていこうと考えるならば、不動産の実務面、税金のこと、法律のこと、法人設立のための勉強、経理のこと…などなどの勉強が必要になり、それが大変めんどくさい。

そう大変めんどくさいので、多くの人はイノセント勤め人ルートを選ぶ。

この大変めんどくさいルートを、あえて自分に課す必要性を感じている人でないと、この道を歩き続けることはできない。

しかしその気質は、もはや生まれつき、遺伝子レベルの形質でもあると思う。

「竈門炭治郎のうた」歌詞の一節

我に課す 一択の

運命と 覚悟する

これができる人しか、キャッシュフローを確保しようとする動きはできないと思う。

そんな風に、竈門炭治郎さんに支えられながら、今日も活動していく、そんな日記だった。

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