もう20年以上昔のこと、当時隆盛を誇っていたスーパーファミコン。
そのソフトのひとつに「エスパークス」というRPGがある。
エスパークスとは、伝説の勇者の名前で、プロトルードという異次元の怪物たちと戦う物語だ。
「エスパークス」あらすじ
本作の主人公は、マーキュリアスという普通の少年。
小さな村で日常を生きていたが、ある日、プロトルードが次元の境目を破り侵攻、マーキュリアスの住んでいる村が襲撃される。
両親が殺され、マーキュリアスもあわやというところで稲妻が走り、マーキュリアスの身体を打ち、昏倒する。
そこにキー助という、エスパークスの著名なお供が現れ、マーキュリアスを助ける。
マーキュリアスが目覚めると、エスパークスの鎧を纏っていた。
キー助いわく、エスパークスはプロトルードたちが棲まう次元「ギガンテ」にて死闘を繰り広げていたが、追い詰められピンチに。
彼は肉体を捨て、「せいしんたい(精神体)」となってギガンテを脱出、漂流の末マーキュリアスに憑依した…
というところから物語は始まる。
前置きが長くなった。
この昔話を思い出したのは、今のこの世界は「せいしんたい」が大切だということに気がついたからだ。
インターネットという空間では、多くの人が肉体を持たない。
肉体とは、この場合、顔出しを指す。
僕が書いているこのブログも、Twitterも匿名だ。
声は出したことがあるが、顔は出したことがない。
聖帝サウザー師匠は一部、狐の面やサングラスで隠しながらその身を曝したことがあるがそれでもメインの発信(Voicy、Twitter)ではフィジカルを曝していない。
様々な発信者、インフルエンサー()を見てきて思うのは「精神体」に注目することが大切だということだ。
「見た目」をハックする人々
人は見た目が9割と言われる。
僕らは初対面の人と相対した時、その人の服装や髪型、表情や体型などから動物的に直観でジャッジする。
この人は安全か、危険か。
信用できるか、できないか。
なんとなく、好きか、嫌いか。
そんなことを動物的な直感でジャッジして、以後その方針に従うという習性がある。
これは石器時代の頃に備わった危機回避能力のひとつであろう。
僕らは太古の時代に形作られた脳のまま、現代社会に生きている。
つまり僕らは、残念ながら「見た目」により良くも悪くも騙されてしまうということだ。
その人がどんなにいい人であっても、恐い見た目をしていたら無意識に警戒してしまうし、性根が邪悪な人でもスーツをピシッと着て笑顔であれば、心のガードを緩めてしまうのである。
この錯覚を利用して、詐欺師は幻術をかけ、カモを狩っていく。
これに抗おうとするならば、そのフィジカルによるルックスを度外視してジャッジをしていかなくてはならない。
その時に重視すべき項目が「精神体」なのである。
精神体の勝負
少し経験と知恵のある人ならば、見た目を整えている者ほど詐欺師の可能性が高いことを知っている。
また、詐欺師まではいかなくても何かを売ろうとしていることを知っている。
彼らは、第一印象が大切だとわかっているから。
第一印象という幻術によって、その先を自分に有利なように進めていけると知っているから。
もちろん、第一印象も良くて精神体も優れている人がいれば最高だが、なかなかこの部分は同居できないようである。
なぜなら精神体が優れている人ほど、このような詐欺師の行っているムーブを嫌うからだ。
自分が同類と思われたくないのである。
また精神体が優れている人ほど、フィジカルを曝して徒らにフォロワーを増やしたとしても、あまり良質な理解者(フォロワー)を得られないこともわかっている。
そのためやはり、精神体が優れている人にとっては「フィジカルを曝す」に戦略的価値はないのである。
一方で、詐欺師たちは少しでも信頼を得られるようにフィジカルを曝して幻術をかける。
画像や映像を使う。
精神体が優れている人は映像を使わない。
文字を使う。
使ったとしても、音声までである。
精神体が優れている人ほど精神体同士で交信をする。
つまり文字媒体で、述べている内容でジャッジする。
フィジカルとか、映像とか、そういう感情や本能に語りかけるのではなく、あくまでも「精神体」に語りかける。交信する。
まさに今この瞬間、あなたと僕は、精神体同士で交信をしている。
僕の精神体は文字となってあなたの精神体に語りかけているし、受け取ったあなたもまた、自分の精神体でもってなんらかの感想を抱いているはずだ。
幻術に抗う
有名な「メラビアンの法則」によれば、人は何を話しているかよりも、誰が話しているかによってその受け取り方を変えるという。
もちろんその習性は当たっている。
しかしそのような一種の幻術に、なんとか抗いたいと思う人がこの記事を読んでくれているのではないだろうか。
僕もかつて、同じように思い、真に信頼できる発信者は誰なのか、探し回っていた。
今から3〜4年ほど前、20代後半のことである。
結果、聖帝サウザー師匠に行き着くわけだが、なぜ氏を信頼できたのか思い返すに、氏は「精神体」を重んじていたからであったと気が付いた。
僕はルックスとかフィジカルとか、そういうお飾りーー
幻術や錯覚でなく、本質を語っている人を探していた。
そこを「精神体」でジャッジして信に足ると感じたのが聖帝サウザー師匠だった。
文字媒体という障壁
発信者が雲霞のように増えてきて久しいが、誰の発信を受け取るか?の選別はとても大切だ。
ふかふかした精神体の人は、YouTubeの動画やインスタの画像は受信できても、文字は受信できない。
文字は「読む」という能動的な動作が必要だからだ。
能動的な動きには、大きな精神力と気力の消費がある。
この動画最盛期の今、あえて文字媒体を使っている人こそ、信用するに足るのではないかと思う。
ふかふかした養殖魚に届けても…
もちろんYouTubeで動画を出したり、インスタで画像投稿していく方が「フォロワー数」は伸びる土壌がある。
しかしそこにいる人々は、僕が見たところ「ふかふか」した養殖魚みたいな人々で、天然物の締まった筋肉質な魚ではない。
これらのプラットフォームは生け簀だ。
その生け簀でいくら養殖魚を釣ってもーー
フォロワー数を伸ばしても、意味はないと思う。
なぜならふかふか養殖魚は理解力・リテラシーも低いしお金もなく購買力もないからだ。
要するにお客様にならないし、絡んでも良い事がない。
そういう意味でこのような文字ベースで接触できる「精神体」、つまり読んでいるあなたとは、交信は望むところであるのだ。
もちろん「DM送ってこい!」ということではなく、一方的な受信、ROM専でもちろん大丈夫なのだが、僕はブログのPV数を見るたびに、天然物で筋肉質な精神体の皆様の存在を感じ取っている。
かつて聖帝サウザー師匠もこのVoicy回にてこう仰っておられた。
「骨太なリスナーはただ聴いているだけで、コメントはしない。ただ実行するのみ」
と。
(チャプター3の4:15〜)
それに通じるものがあるしさらにVoicyよりも、文字ベースでの交信はハードルが高い。
受動で聴ける音声と異なり、文字を読むというのは能動性が要求されるからだ。
精神体なき者は体を売るしかない
長々と述べてきたが、僕がお伝えしたいのは「精神体」が強くないと肉体を売るしかなくなってしまうということだ。
精神体による付加価値が生み出せない場合、肉体労働をするしかなくなる。
配達員や飲食店員。
男性ならば建設作業員、警備員。
さらに女性ならば…風俗系。
大変厳しい世の中だが、それが現実で、精神体が伴わないとどんどん転がり落ちていくしかないのがこの現代社会と言える。
もちろん、肉体労働は社会には必要だし、職業に貴賎はないが、ただ報酬と待遇は平等ではない。
思うに、これらの職業は需要<供給だから、その賃金と待遇は買い叩かれて安くなっていってしまうのだ。
つまりこの世は精神体が弱い人で溢れているということ。
精神体が弱い人が多くて、世の中に過剰供給されているから、資本家側は彼らを買い叩けるのだ。
聖帝サウザー師匠は色々なことを教えてくれたが、その結論は
「一生懸命、生きろ」
である。
僕はそう捉えている。
自分の商品を作り自営の道を歩むことも、女修行をしてセックス不足に陥らない方策も、それは結局のところーー
生物として「一生懸命、生きる」ということに他ならない。
この「一生懸命」を裏支えるものが「精神体」なのだ。
この文章に出会える方は、まず精神体がしっかりと強いし心配はない。
強い精神体が無いと「一生懸命」が、どうもできないらしい。
精神体の鍛え方
最後に精神体の鍛え方について、現状わかっている範囲で僕の経験談を述べておく。
スマホ時間の減:「暇」を守る
まず効果的なのはスマホを触る時間を減らすことである。
スマホは「大人のおしゃぶり」と揶揄されているように現代人が肌身離さず持ち、そして無限のコンテンツ、つまり「暇つぶし」を提供してくれる。
これが危ない。
「暇」が潰されてしまうと、「思考」する時間が奪われてしまう。
言い方を変えると、人生について思い悩む時間が無くなる。
こうなると自分の今の立ち位置と、未来について思いを馳せ、そのためにどうするか?という作戦を練ることをしなくなってしまう。
そのためスマホタイムを減らすことはかなり有効だ。
とはいえ全くのゼロとかに削減せよとまでは言わない。
ただ「なんとなく」でスマホを開き「あ〜何調べようかなぁ」「(YouTubeで)サジェストの動画、どれもあまり興味ないな〜」というような症状が出ていたら、それは惰性による「大人のおしゃぶり」状態になっているから注意だ。
その状態ならわざわざ頑張ってスマホを開かなくても良いということに気がつくことが大切だ。
紙で書きもの:精神を束ね直す
次に紙に何かを書くことだ。
これは聖帝サウザー師匠が「日記を書くと良い」と推奨しているということもあるが、僕の経験としてはあえて「日記」と思わないことが肝要かと思う。
なぜなら「日記」の場合は「今日はどこそこに行って、誰と会った」
とか
「今日は仕事忙しかった」
みたいな日常の「記録」になりがちだからだ。
確かにそれが「日記」本来の目的だと思うので間違ってはいないのだが、単に記録を残しておきたいわけではない。
精神体を練るためには、日々自分の思考を紙に書くという形でアウトプットする習慣が好ましい。
日常の事実の記録は要らない。
もし日常の何か出来事があって、それによって自分が感じたことを書くことは良い。
とにかく「事実を羅列した記録」にしないということがポイントだ。
例えば仕事でくだらない注意を上司から受けたとして、その事実と「ムカついた」程度の日記にしてしまうのは勿体ない。
そうではなく、なぜ上司は注意しようと思ったのか、妥当性はあるのか、それを受けてどう感じ、次はどう対処しようか…と考えることが正しい日記書きと思う。
なお僕の体験談としては、このように少し掘った書き物を日々やっていると、雇われ人仕事の忙しさに押し流されてしまうことがない。
押し流されるとは、
「毎日忙しいし、もう考えるのメンドイからこのままサラリーマンずっとやるルートでいいや〜」
と卒業を諦めてしまうことを指す。
このように散らばってしまいそうな精神を毎日、束ね直すのが、この日々の「書き物」の役割なのだ。
ファンビジネスに注意
最後に、この記事を書こうと思ったきっかけを。
僕はとある分野で興味を持った人がいた。
いわゆるインフルエンサー()である。
良い情報を提供しておられたので著書やSNS、音声メディアを追っていてしばらくして感じた。
「ここはファンクラブじゃないか」と。
その人自体の発信は価値あるものも多い。
しかしその発言と行動の端々に、リスナーを信者化させ、ファンにする仕組みが多数あることに気がついた。
画像や映像で自らを見せ、ファンになってもらう。
ファンになった人は、有料の発信もサブスクで買うし、グッズを出しても買ってくれる。
しかしながらこれは別に悪いことではない。
情報発信で食べていくということは、「ファン」が絶対に必要だ。
定期的に買い支えてくれるファンがいなくては、そのような活動は成り立たない。
聖帝サウザー師匠がインフルエンサー()のことを「ネット芸人」と呼ぶのは的を射ている。
だから彼らは、多くの人にファンになってもらって、浅く広く集金することがそのビジネスモデルの仕組みからして、必須なのである。
そして僕が彼らを警戒するのは、こういう「ビジネス」でやってる人の発信は常に幻術が混ざっていること。
彼らの目的は、リスナーを進化させることではない。
ただただ「ファン」になってもらって安定的・継続的な収入源たるお客様になってほしいという、単なるサービス業なのだ。
なぜこう感じたかといえば、その発信に寄せられるコメントや、音声メディアで取り上げられる質問の内容が、「ふかふかした養殖魚」からばかりだったからだ。
その「ふかふか」したコメントや質問は
「いや頑張れよ」という回答しかない内容だった。
しかしながらそのインフルエンサー()は
「うんうん。つらいですね。あなたは悪くないですよ。こういう考え方もできますよね…」
と、何と慰撫し始めた。
これではこのふかふか養殖魚さんはいつまでもふかふかのままだ。進化はない。
しかしそれでいいのである。
なぜなら「ファンビジネス」だからだ。
こうして考えていくと、やはり聖帝サウザー師匠の発信というのはホンモノであったと、あらためて思うのである。
コメント