読書感想文記事。
今回は『覇王の家』司馬遼太郎について。
簡単なあらすじ
本作は徳川家康という偉人を、様々な角度から考察した研究書といえる。
決して、単なる歴史小説ではない。
むしろ、学術的な雰囲気さえある。
このことは、僕もこの本を手に取り、読むまで予想していなかった。
「歴史小説が、若干の教訓的なテイストを含んでいる程度なのでは?」
と邪推していたのだが、決してそんなことはない。
この書は、司馬遼太郎先生が、かなり細かく文献をあたり、家康の敵方の記録や、その時の社会情勢や利害関係などを考察した上で、「家康はこう考えたのであろう」と、語っている。
もちろん、家康自身の発言や、思考回路の解説が明確にされている文献がある場合もあるが、まだ文字すらも普及していなかった時代だったから、やはりこのように、周囲の状況からの推測や、その後の家康の行動から、その思考回路を読み解いていく他ない。
そのことを、ものすごい精度で研究したのが、本書である。
上巻:地方の小大名〜信長との同盟
覇王の家は上下巻から成る。
まず上巻は、家康の幼少期のことから始まり、今川家での人質時代を経て、三河領主となり、織田信長と同盟し、そして信長が本能寺の変を迎えるまでの時期となる。
僕が特に面白いと思ったのは、「ヘイトコントロール」の部分だった。
もちろん、作中では「ヘイト」などという単語は登場しないが、現代風に言うと「ヘイト」なのだ。
三河の領主、家康は、非常に危うい環境下にいた。武田、今川、北条といった古来からの大勢力の真っ只中にいた。
その中で新興勢力である織田信長と同盟を組んでいく。
ただ、織田信長と同盟したといっても、実は臣従の形をとっていなかったりもする。
この部分も非常に興味深いところだ。
相手よりも立場の弱い身であっても、魂まで売り渡さないという姿勢のお手本と言える。そうでなければ人はついてこない。
また、自国・三河の中でも、有力な豪族たちはそれぞれ、家康とは対等だと思っている節があるから、こちらも主従関係は薄い。
織田信長のように「主人」となるのではなく、家康は多くの豪族たちの「盟主」というスタンスだ。
そういうスタンスだからこそ、戦国の世にありがちな「裏切り」に遭わなかった。
外部から特別に攻撃されることもなく、また内側から崩れていくこともなかった。
このことはひとえに、家康のバランス感覚と、それによるヘイトコントロールが完璧だったからだろう。
とにかく人間相手に「ヘイト」を溜めると、ロクなことにならない。
外部には攻める気と口実を与えてしまうし、内部にヘイトをためると謀反も起こる。
特に当時としては弱小勢力だった家康である。
このヘイトを溜められることなく、進めて行ったところが非常に勉強になる。
特に上巻の終盤では、武勇に優れてはいたものの、このヘイトコントロールを身に付けていなかった信康(家康の長子)や、敵方では武田勝頼がどのように身を滅ぼしていってしまったのかの考察が大変勉強になる。
下巻:部下マネジメント
下巻は織田信長が没した後、羽柴秀吉が有力者になってくるあたりから始まる。
しかしながら、まだ織田家とも同盟関係は残っているので、秀吉の傘下に入ることもできない、微妙な立ち位置であった。
また、この頃の秀吉の天下は、織田信長軍団のような強力な上下関係がある組織ではなく、秀吉を「元・同僚」と見做す武将達の集合体であった。
そのため、秀吉は「利害」によって武将達を誘導していくのであるが、そこに家康は、なびかなかった。
臣従の意を、明確には示さなかった。
しかし敵対の姿勢も見せず、礼は失さなかった。
このあたりの外交手腕もさるところながら、僕は特に「部下マネジメント」が強く印象に残っている。
先述のように、秀吉の天下は、実は一枚岩ではなかった。中には秀吉を裏で軽んじているような武将達がいる、危ういバランスの集団だった。
それに対して、家康の家臣団は見事な一枚岩だった。
なぜ一枚岩なのかといえば、そこに家康の気質とテクニックがあるからだ。
家臣達の自尊心を大切にして、意見を言いやすくし、部下達を怖がらせることのないように努めた。
この姿勢を見て、家臣団は自然とまとまり、忠誠心の高い集団になっていった。
このことは、多くの示唆を与えてくれる。
現代の日本においては、もはやかつてのような封建制度はない。
かつては当たり前だったパワーマネジメントが通用しない。
上司を殿様として、従う者は減ってきた。つまり織田信長風のマネジメントをすると、反発したり退職したりして…要するに、効かないのである。
そんな時代に、部下達を統率して、いうことを聞かせていくためには、家康流のマネジメント方法が有効だろう。
先述のように、信長は「主人」で、
家康は「盟主」である。
圧倒的な上下関係でマネジメントする「主人」つまり信長式は、もはやパワハラと訴えられるまである。現代では危険なマネジメント方法となった。
対して、平等な権利を持つ者達の「盟主」という考え方が家康流だ。
封建社会バリバリ現役の時代において、この考え方は異質と言える。
一緒に働くメンバーに対してどのように振る舞えば良いのか。現代ではこちらのマネジメントの方がマッチする。
そのヒントは本書にある。
ライフハッカー家康
下巻で多く語られるのだが、実は家康は当時としては非常に先進的な考え方をしていたようだ。
予防医学の考え方、運動の大切さ、閨(ねや)の制限などだ。
またフィジカル面だけでなく、蓄財の姿勢や、浪費を嫌うものの、使うべき時は使う、というようなお金に対するリテラシーも非常に高い。
こういった家康の側面は、非常に勉強になる。
こういう気質だったから、助かったのか、うまくいったのか、と成功例を学ぶことは自分にとっても有用だ。
日本版『人を動かす』
『人を動かす』(デール・カーネギー)は世界的な名著であり、この本がアメリカで出版されたのは1937年のことである。
なんとそのエッセンスを既に実行していた人が16世紀に、この日本に居た。
敵を作らず、部下に慕われ、外様に裏切られることなく天下統一した男は、なるほど、なるべくして天下人になったのだ。
僕が個人的に『人を動かす』よりもこの『覇王の家』が良いなと思うところは、日本人特有の陰湿な気持ちを司馬遼太郎先生がよく理解しておられるところだ。
『人を動かす』に登場するエピソードの多くはアメリカの話であり、結構、快活な話が多い。
陰湿な、妬み嫉みの感情渦巻く社会の話ではない。
もちろん多少はそういったエッセンスが含まれているのだが、この日本ほどに陰湿な印象はない。
だからこそ、日本人にはこの『覇王の家』を日本版『人を動かす』だと思って読んでみてほしい。
アメリカ人にない、日本人特有の気質に非常にマッチしている。
この気質とは、ネガティブな面は「陰湿」であるが、ポジティブな面には「忠誠」「恩義」などがある。
もちろんアメリカにもこれらの気質は存在はしているが、日本人はその傾向が格別だ。
そういう意味で、日本人にとてもマッチした本だと感じた。
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