雇われ人を卒業するための方法論について考えた。
聖帝サウザー流ダイジェスト
我らが聖帝サウザー師匠は『金持ち父さん』と『資本論』から、下記のように結論付けた。
「資本主義経済は商品の集合である。
この資本主義主義のマーケットにおいて、ほぼ全ての参加者は何らかの商品を、お金を介して交換している。
商品には自らの『労働力』も含まれるが、これは言い換えれば時間を切り売りすることである。
そして勤め人は自分の労働力(時間)しか商品がない。
資本家は労働者に対しては、その労働力再生産のコスト分の経費のみを、給与として支給する。
ゆえに労働者でいる限り、自分の自由になる時間はない。
労働力再生産の経費なので、基本的には労働者に資本を蓄積させることはない」
と。
この結論から聖帝サウザー師匠は、端的に
「自分の商品を作って売れ」
と発信をしてきた。
労働力を時給で売るのではなく、時給と関係なく売ってお金になるような商品を作ることによって、その人は時間の切り売りから脱却できるのであると。
そしてその「商品」とはなんなのか?というと、聖帝師匠は「目に映るもの全て」という。
例えば目の前にあるパソコン、スマホ、コーヒーカップ、お菓子、窓ガラス…それら全てには作っている企業があり、社長がいる。
つまりどんなものでも商品になるのだ。
しかしながら雇われの身である以上、元手となる資本や機材もなければ、生産するための時間もあまりない。
そこで聖帝師匠が推奨するのは5つの「小商い」だ。
- 転売
- ブログ・アフィリエイト
- イベント
- 不動産
- コンテンツ販売
これらで副収入を得て「勤め人+α」になって、キャッシュフローを生み出したり、タネ銭を貯めるという道筋を示した。
資本を蓄積し、資本家の側になること。
これが資本主義ゲームの攻略法であると、聖帝サウザー師匠は結論づけたのである。
てんちょニズム
そして僕がこの聖帝サウザーイズムに、ミックスさせたい概念は、えらいてんちょう氏が提唱する「生活の資本化」という概念だ。
氏はその著書『しょぼい起業で生きていく』にて、しょぼく起業するとは、自分の生活の一部を商品にしてしまうことだと説明した。
これを「生活の資本化」という。
例えば自分のために家庭菜園で作っていた野菜を、友達に売る。
自分のために作る料理を、多めに作って、食べたい人に売る。
このように、商品を売るためにわざわざ作るのではなく、自分の生活の延長線上に商売を組み立てる、という考え方だ。
えらてん氏は、しょぼく起業するために、店に住み固定費を減らしつつ、初期投資を可能な限り小さくして自分が苦にならない程度の強度で働いていくことを推奨していた。
このことは、白熱教室「支那そば軍曹編」の内容にも通じる(レビュー記事リンク)。
支那そば軍曹殿はこう仰っている。
「いきなり大きく始めないこと。
食器は100均のものでいい。
椅子はビールケースでもいい。
文化祭でお店作るくらいの始め方で良い」
これもえらてん氏の考え方と同じだ。
僕はこのことを「てんちょニズム」と呼びたい。
自分の生活の延長線上に商売を作り、かつ小規模でしょぼく始めていくのだ。
聖帝流とてんちょニズムの融合
ここで聖帝サウザー流との融合を考えたい。
聖帝サウザー流においては「労働力以外の商品を持て」が主軸である。
どんなものでも構わないから、労働力・時間を売るのではなくて、自作の商品をお金と交換すること。
「よし、そうか、商品を作るんだな!」と読者の皆様は理解してはいるが、ここから先が進めないかと思う。僕もこの地点で迷って足踏みした。
聖帝サウザー師匠は先述のように不動産賃貸業(自己所有の物件に住む権利をレンタル代として売る)やコンテンツ販売、イベント開催、ブログアフィリエイトによる広告業などの例を示してくれたが、これらはあくまでも例であって、それが自分の特性や特長と一致するかどうかはまた別の話である。
例えば人とコミュニケーションを取るのがあまり好きでない人にとってはイベント業は苦痛だろうし、文章を書くことが得意とか好きでなければブログアフィリエイトも苦痛だろう。
不動産賃貸業も、買い付け、修繕の依頼、入居者の募集にもコミュニケーション力は要求されるし、もしDIYで修繕などが前提となる築古戸建てをターゲットとするならDIY作業に多少の適性がなければ続かないだろう。
コンテンツ販売も、多くの人が欲しがる稀有な体験談や考え方を持っているならば買い手も見つかるかもしれないが、お金を払ってまで読みたい記事というのはなかなかにハードルが高い。
つらつらとネガティブな事を書き連ねた。
では普通の人には可能性はないのか?
ヤコバシはあきらめ野郎なのか?
という印象を抱かれたかと思う。
しかしそうではなく僕が述べたいのは、
「他人の提示された道を選んだらそりゃそうなるよ」ということである。
確かに、聖帝サウザー流の小商いは「勤め人のかたわらで」という条件下では間違いない選択肢となる。
雇われの身である以上、時間的制約が強いからだ。
しかしその枠を外せば、別にこの五大小商いに縛られる必要性もまた、ないのである。
ここで先述の「てんちょニズム」を思い出す。
自分の生活の延長線上に商品を作り、小さな規模で「しょぼく」始めていく。
具体的には土日だけやるとか、フリマに参加するとか、ネットで小さく売るとか、どこかの店先でスペース借りるとかそういう規模である。
もちろん商品作りもしょぼく始めていく。
家でカレーを10人前作ったり、ハンドメイドで小物を作ったり、文書をネット上で販売してみたりする。
最初は全く反響がないかもしれないし、仮に売れても、評価が悪かったりするかもしれない。
しかしこのアウトプットを検証して改善してしか、進歩はないのだと思う。
ここでいきなり大きく始めてしまうから、多額の借金を負ったりしてしまうのではないか。
とにかくしょぼく始める。
良い商品にファンはつく
自分が消費者の立場で、好きなお店や商品があるかと思う。
あのお店のラーメンは美味しい、あのお店は自分の好みに合う服が売っている、色々試したけどこのブランドのゴルフボールが好き、この作家さんの文章が好きだから新作も買う。
我々はこのように、なんらかのファンになっている。
それらは、何かの点で優れていて良い商品ではないだろうか。
結局のところ、良い商品にしかファンは付かないのだ。
それに対して、何かが欲しくなったときに
「100均でもいっか」
「安いのでいいや」
と、こう考える種類の商品をなるべく選ばないことも大切だ。
もちろんこれは個々人の興味関心に依存することではあるが、少なくとも自分がそう思うモノに手を出さないでおこう。
こういう類の商品には、ファンが付きにくい。
そもそも自分がファンでない分野の商品に、熱くなって研究することはないから、やはり良い商品も作れず悪循環となる。
「あればいいな」と思うもの
「ここがもうちょっとこうなれば最高なのにな」というもの。
こういうものを作ってみる。
もちろん設備が必要だったり参入障壁が高いものもあるから、全てに手が出せるわけではない。
自宅で、ちょっと道具を揃えれば作れる範囲か、もしくはまとまったお金で専門業者さんにお願いする、程度のレベルから始める。
このような話題を出すときに必ず思い出すのはFate/Zeroより英雄王ギルガメッシュ先生の名言である。
「無意味さの忘却、苦にならぬ徒労。すなわち紛れもなく遊興だ。
遊興は愉悦を導き、愉悦は幸福の在り処を指し示す。
自覚がなくとも魂というものは本能的に愉悦を追い求める。血の匂いを辿る獣のように。
それらは興味関心となって表に現れる」
この「表に現れる興味関心」に、目を向けることで自分の特長・特性を発見できる。
さらに具体的には、時間とお金の使い途を精査すること。
自分が無意識にお金を割いているもの、気がついたら使っている時間。
ここに自分の特性を見つけるヒントがある。
その特性を伸ばして伸ばして、不便や不満に思っている事を見つける。
それを解消する商品をしょぼく作っていき、しょぼく売っていく。
もちろんすべての趣味が商品化でき生活費を稼ぐレベルになるとまでは言えない。
しかしその中からエッセンスを見つけ出すことは可能だ。
うまくいかなかったら、次のネタを探せば良い。
新たな出会いや出来事をきっかけに、急に好きになったりアイディアが思いつくこともある。
こうして「しょぼく商売を始めるんだ」という気持ちをもっていれば、自然とアンテナは励起し、わずかなチャンスを受信できるようになる。
「アレ?これなんでこんなに売れてるんだろう?
人気なんだろう?どんな人がファンになっているんだろう?」
こういう気づきからヒントは始まる。
そして「自分も興味あるな」「好きかもしれない」と思うことから、それを消費する側から作る側に回ってみる。
これがてんちょニズムと聖帝流のミックス理論で、僕が今チャレンジしている方式だ。
コメント